プロフィール



椎野正兵衛 商店
〒156-0054
東京都世田谷区桜丘 3−30−15
Web: http://www.s-shobey.co.jp
Phone: 03-5450-0801  Fax: 03-5450-0678
お問 い合わせ

安政六年 (1859年)横浜開港時から『和魂洋才』の精神をモットーに海外と日本の交易を行っ たのが初代椎野正兵衛でした。

とりわけ洋装絹織物の製造販売で世界的な名声 を博し、江戸時代から洋装の製品を作り高い評価を受けていました。

江戸時代 からS.SHOBEYというブランドを持ち英文や仏文で広告を展開し、海外のエキジビション で16回のアワードを受賞する等広く世界に羽ばたきました。

その製品の多く はアメリカ、イギリス、フランス等の博物館で見ることが出来ます。

その製品 の特徴は日本の伝統的な工芸技能をよりグローバルに発展させた素材や製法を考案し、独 特なアイデンティティーを持ち海外のセレブたちの心をとらえました。

 その代表的なアイテムがドレッシングガウンとスカーフといえます。

その他にもスモーキングジャケット、ハット、絵ハンカチ、日本刺繍を施した タペストリー、カーテン、ベッドカバーやストッキングに至るまで数多くの工芸製品を輸 出し、本町2丁目の店舗は海外から来日した人達のあこがれのセレクトショップとして海 外の渡航記には多々登場します。

 その後S.SHOBEYのコピー製品が沢 山出回り日本伝統の美意識が薄れる事に心を痛め、日本美術協会の前身である龍池会に終 身会員として参加し有栖川宮親王、伊藤博文、井上馨たちと美術工芸品の啓蒙活動に専念 しました。

初代正兵衛が死去した後は二代目の椎野正兵衛と初代正兵衛の弟と して養子入籍した椎野賢三(伊藤賢三)とともに関東大震災、戦災で横浜が壊滅する迄世 界に向けて絹製品を作り続けていました。

 2002年2月22日、四 代目にあたる椎野秀聰によって株式会社椎野正兵衛商店は現在の最高級シルク製品を作る 商店として再興されました。

In the year 1859 (Ansei 6), our founder, Shiino Shobei commenced trade between Japan and the West based on the motto of, ‘Japanese spirit and Western learning’.
Reknowned around the world for the manufacture and sale of couture silk in particular, S. Shobey products were thought  of very highly as couture products from the late Edo period onwards.  The brand expanded with advertising in English and French while winning 16 awards at various world expos held in the 19th and early 20th centuries.
S. Shobey’s products and be found at museums in the United States, the United Kingdom, and France.
By devising innovative processes and materials, S. Shobey has developed and evolved so that the characteristics of our products, each with a unique identity, have captured the hearts of well-known people in the West.
The most representative items that appealed to wealthy customers were dressing gowns and scarves as well as products ranging from tapestries to smoking jackets, hats, handkerchiefs with exquisite embroidery, curtains, stockings, and bed covers.  There are numerous accounts in diaries of Westerners who visited the S. Shobey store on Main Street, Yokohama, to purchase something special from this select shop.
Association are disappointed to see the Japanese sense of beauty tradition fading due to increasing numbers of S. Shobey products being copied.  S. Shobey as a life member of the association, together with those named above, countinued to devote himself to  educating others about art and beauty.
After Shiino Shobei passed away in 1900, the brand continued producing and exporting silk products under the guidance of his adopted younger brother Shiino Kenzo until the devastating Great Kanto Earthquake in 1923.
On February 22, 2002, the Shiino Shobey Company re-emerged to continue making the finest silk products by Shiino Hidesato, the great-great grandson of the founder, thus taking the brand into its fourth generation.

S.SHOBEYのロゴマークは、椎野正兵衛が最初に興した横浜本町2丁目の本店店 舗をモチーフにしています。和魂洋才形式とでも呼ぶべきこうした店舗建築は当時の横浜 では取り立てて珍しいものではありませんでしたが、「創業当時の心を大切に」との想い から、シンボルに蘇らせました。

The S. Shobey logo was inspired by the head offie store in Yokohama on Main Street.  Although such a store building that was built based on the idea of, ‘Japanese spirit combined with Western learning’ was not that unusual in Yokohama, we thought it best to revive the building as a symbol to, ‘cherish the spirit of the days of the founder’.

S.SHOBEYの商標(横浜開 港資料館所蔵)
S. Shobey Silk Store trademark label (from the Yokohama Archives of History collection)

江戸末期から明治初期の椎野 正兵衛商店の写真(日下部金兵衛撮影)
右手前2件目と1件あいて4件目
Photo from the early Meiji era taken by Kusakabe Kimbei
S. Shobey Silk Stores are the 2nd and 4th shops on the right.  The S. Shobey Silk Store sign is visible in this photo

明治40年頃の椎野 正兵衛商店
A postcard from around 1907 showing the S. Shobey Silk Store on the left

初代 椎野正兵衛
Photo of the founder, Mr. Shiino Shobey

二代目 椎野正兵衛
Photo of the 2nd generation, Mr. Shiino Shobey (Shozaburo)

1870年代のドレッシ ングガウン
(京都服飾文化研究財団所蔵)
S. Shobey dressing gown from the 1870s (from the Kyoto Costume Institute collection)

 1890年代のドレッシングガウン
釈迦結び他施しからS.Shobeyのものと思われる
(メトロポリタンミュージアム所蔵品/資料提供 京都服飾文化研究財団)

1870年代の男性用ローブ
アメリカより収蔵

(2013年12月 椎野正兵衛商店所蔵)

1877年 ビクトリア女王がインド帝国の皇帝に即位した時の Coat of Arms(紋章)
イギリスより収蔵

(2015年2月 椎野正兵衛商店所蔵)

江戸末期から明治初期の洋装服地とパッケージ
イギリスより収蔵

(2015年8月 椎野正兵衛商店所蔵)

第一回内国勧業内博覧会のブースに展示されたS.SHOBEYのドレス3体の写真。
(ショーケース内)神奈川県のコーナーに展示

1860年江戸末期SSHOBEYシルクストアーで販売された ドレス用の箱
アメリカの捕鯨船船長へピングストーン氏が細君にプレゼントしたドレスの箱

(椎野正兵衛商店所蔵)

明治時代 のS.SHOBEY絹寝衣(ねい)を羽織るスベロニア人

寝衣をよく見ると、S.SHOBEYの文字ロゴが確認できる
写真ハガキになっている

日本人になりたがったほど日本が大好きな英国人

彼が日本で収集していたS.SHOBEYシゥクストアーで購入した扇(写真製版)と絹地飾り絵セット

(椎野正兵衛商店所蔵)

(椎野正兵衛商店所蔵)

1880年のS.Shobyの広告
ジャパンディクショナリーに掲載

明治時代の椎野正兵衛商店の名刺 
初期のものは番地が28、30と入っている
ー表ー

明治時代の椎野正兵衛商店の名刺 
ー裏ー

昭和二年頃
椎野家長女婦美子北里家長男男爵俊太郎結婚式
麻布材木町北里家迎賓館にて

前列右から二番目が二代目椎野正兵衛左から二番目が男爵北里柴三郎
媒酌人松尾男爵



椎野賢三についての調査 ーその1ー

2002年私が賢三について調査を始めた頃、椎野賢三は椎野正兵衛の娘婿というのが定説になっており、椎野正兵衛と椎野賢三の関係につきましては長い間、実際のところが全くわからない状態になっていました。

それは横浜の公的書類が関東大震災により焼失してしまったからで、椎野正兵衛商店としても椎野賢三商店としても、その実態が把握できていませんでした。お寺の過去帳や登記簿謄本も、両家のものがほとんど焼失していて、大正年間に各家族が申告したものが現在の基本台帳化されています。

横浜の歴史家の書き留めたものには、椎野正兵衛の娘婿が椎野賢三だと書かれていますが、私の父の代には椎野賢三を知る人が親戚に一人もおりませんでした。
そこで私が二人の関係を調べてわかったことを書き留めておきます。

明治6年 1873年ウィーン万博の参同記要に書かれている賢三の記述には、賢三自身が自分を椎野正兵衛の実弟と表現しておりますが、この記録は万博の当時の正式な記録がなかったために、大分後の明治38年8月7日に書き残したものであることがわかりました。この時点で初代椎野正兵衛はすでに他界しており、息子が二代目として椎野正兵衛を引き継いでおりました。

幸いにも2010年に賢三の四代目にあたる椎野弘之さんが、偶然に私の店舗にお見えになり色々なお話をしているうちに少しずつ事実が解明され、それからは二人でお互いの家族のことを調べ始めました。その時点では同じような話がどちらにもあり、どちらの家も相手方の話は一切わからない状態でした。また、どちらの椎野さんかわからない遠縁の人だとか言われる方も店舗に二三人お見えになり、また新たな情報もたくさん集まりました。

賢三の家は西太田の方にあって、関東大震災の火災を免れたそうで幾つかの記録文書やデザイン帳などが見つかりました。震災ののち二代目椎野正兵衛は、長女の嫁ぎ先である北里柴三郎男爵の本家 麻布材木町10番地に隠居用の家を構えて、生涯そこで暮らしていました。
一方賢三は、明治40年頃に発行されました横浜名鑑によれば、浅草出身と書かれています。準公的文書がこのようになっていますから、これは相当複雑な事情が多くあり、全てを解明することが難しいと思っていましたところ、関西方面から中野さんという方が現れて、椎野賢三の親戚にあたるというのです。この中野さんから出てきました情報が大筋の経緯解明を可能にしました。
賢三の継承者娘婿 定(さだむ)の孫である椎野弘之さんの父は、生涯家業のことは口に出さなかったようです。また、私の父で二代目椎野正兵衛の子椎野秀蔵も全く同様で、家業のことは亡くなるまで一切子供に話をしませんでした。私は前述の叔母である北里婦美子より椎野正兵衛の話を良く聞かされ、また私の母親からも話を聞いて知っていました。
この中野さんからの調査による信頼される情報と、椎野弘之さんの話と情報を合わせ、初めて椎野賢三についてはっきりとしたことが判明しました。
本名は伊東賢三といい、東京は六郷の伊東伝七なる人物の三男であることがわかりました。そして、伊東賢三は初代椎野正兵衛の妹と養子縁組、結婚し、椎野正兵衛の実弟になったのが真相のようです。残念なことにこの結婚は明治20年前後に破綻しましたが、椎野姓をその後も継承しています。詳しい年代は双方の戸籍が消失されていて確認ができませんでした。